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「く、鯨殺しが出たぞーっ!」

「早く船を戻せっ! 転覆させられちまうぞ、食われたいのか!」

「む、群れだ! 何頭もでかいのが群れてるぞー! 立ち向かうなっ、戻れーっ!」


何やら港でもない浜が騒々しい、と思って見てみれば、漁船が次々に慌てた様子で船を浜へ引き上げている。
鯨殺しがどうとか、大きな群れがどうとか言っていたが、松寿丸には何のことやらまったくわからない。聞いてみよ
うと杉大方の方を向くと、彼女は浜に上がる船を見つめて険しい顔をしていた。
気丈な彼女には珍しく顔が真っ青だ。


「おおかたさま、あれはいったい……」

「……松寿丸様、浜へは近づいてはなりませぬよう。鯨殺しが瀬戸海に現れたようです」

「くじらごろし、とはなんぞ……?」


やけに青い顔をしながら説得するように言う杉大方には申し訳ないが、鯨殺し自体を知らない松寿丸には一体何が
どう恐ろしいものなのかがいまいちよくわからなかった。
言葉から察せられるのは鯨ほどの大きな生き物を殺せるような何かである、ということくらいだ。
正直に言えば驚いたように目を丸くした杉大方は、未だ青い顔で説明をくれた。


「鯨はご存じでしょう。その大きな鯨を餌として捕食する凶暴な魚にございます」

「おおきいのか」

「体が大きい上に他のどんな魚よりも凶暴です。度々人を襲うことで知られている鱶さえも捕食し、その凶暴さで
は敵わないと言われております」

「ふ、ふかよりもおおきいとは……。そのさかなのなはなんという?」

「……鯱、と」


恐ろしいものを語るような恐々とした声音で小さくその名を呼んだ杉大方だが、事実とても恐ろしい存在なのだろう。
しかし。


「われらはりくをあるいておるゆえ、しゃちもここまでは、」

「鯱の狩りは陸地に住む生き物にも及ぶと言われております。あの巨体で浜まで一気に乗り上げてくるとか……」

「そ……それは、おそろしいな」


思わずふるりと身震いしたのは、きっと春先の寒さのせいだけではなく、震えたのは松寿丸だけではないのは確かであ
った。





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「なんぞ……」


遠くからきゅーっきゅーっという何かか弱い生き物が必死で鳴いているような声で松寿丸は目を覚ました。隣を見るが
横になった杉大方は何も聞こえていないように深く眠っている。
杉大方曰く、安心して眠れるのは今のうちだけなのだそうだ。あともう少し経てば居場所を突き止められて刺客を送ら
れかねない状況なのだという。

杉大方はあの一件以来松寿丸に今の状況やこれからのことを包み隠さず全て教えると約束した。それは松寿丸に今の状
況を隠し通せないことを悟ったからなどではなく、事の大きさを理解させ、恐らくは杉大方自身がいなくなったときで
も状況を把握できずに危険にさらされるということを未然に防ぐためのものだ。

きゅうきゅういう鳴き声は次第に大きさを増し、松寿丸にはまるで誰かの助けを待っているかのように聞こえた。
聞こえる方角は昼間に鯱が出たと騒いでいた浜の方だった。嫌な予感にまたしても体が震える。
これは人の声にはほど遠い。何かしらの瀬戸海に棲む生き物があの凶暴な鯱に襲われでもしたか。しかしそれにしては
あまりに長い間鳴き声が聞こえる。ここがあの浜から近い宿屋だということを抜いてもこうも長く聞こえるのはいささ
かおかしいのではないか。
そこまで考えて松寿丸の脳裏をある説がよぎる。
あの鳴き声は鯱に襲われながらもなんとか浜へ生き延びた生き物が必死で助けを呼ぶ声ではないのか、と。
鯱に襲われない位置まで逃げ延びたとしても命に関わる傷を負っている可能性は高いので、放置しておけばきっと朝ま
で持たずにしんでしまうかもしれない。
そう考えると途端にいてもたってもいられなくなり、松寿丸は宿に備え付けられていた簡易松明を持ち出し、宿屋を飛
び出して浜へ向かって駆け出した。

この時松寿丸の頭からは、海に一番近い鳴き声を聞いた漁師たちが先に助けてくれるということなどすっぽりと抜け落
ちていた。


















「……おらぬ」


浜へ辿り着いたまでは良かったものの、そこには夜の闇と欠け始めた月に照らされてぬらぬらと光る黒い海しかなかっ
た。手に持った松明に照らし出された浜にはそれらしき影など一つもなかったし、さらに言うと人が出てきた形跡も全
くない。


「たしかにここのはず。おらぬはずは……」


おかしい、自分は確かに聞いたはずなのに、とさらに闇の向こうの浜まで歩き出して少しすると、そこに一体の大きな
魚のようなものが打ち上げられていた。大きさにして松寿丸の六倍はゆうに超えるその巨体は、近づいてきた松寿丸の
方にごろりと向き直ると、小さく一声鳴いた。その声は確かに松寿丸が聞いた声と同じであり、無事に見つけられたこ
とに安心した松寿丸はさらにその魚に歩み寄った。
近づけばわかる独特な海の生臭い匂いに顔をしかめつつ、夜の海のようにぬるりと照り返す肌は少し乾いていた。海の
生き物が乾燥しているなんて、と焦ったが目の前の魚が体を振るい、背負っていたらしいものを浜に落としたとき、松
寿丸は数瞬息ができなかった。


「……っな、は、!」


砂に松明を刺して固定し、仰向けに寝かせたは顔色が悪く目を開けるそぶりを見せない。胸に耳をあてると小さく
鼓動が聞こえたので安心したがそれもつかの間、彼女は息をしていなかった。
氷をあてられたようにぴしりと戦慄して彼女の肩を揺さぶるも、状態は変わらず。鳴きそうになりながら息を体の中に
入れなければ、と松寿丸はの口をふさいで自らの息を流し込む。上手くいかず何度も繰り返していると、彼女は急
にこぷっと口から水を吐き出した。急だったので自分の口や鼻にもかかってしまったが、そんなことなど気にも留めず
奥で詰まって出てこない水を吸いだしてやる。
しばらく同じことを繰り返していれば、今度は大きくむせこんだは大量の海水を吐き出した。
苦しげに見上げてくる赤い瞳にどうしようもなく安堵した松寿丸は濡れることも構わずに強く抱きついた。


「しょ、う……じゅ……?」

「、そなたなにゆえここに……しかし、ぶじで……」


絞り出した声は小さかったが、その声を聞いた魚は満足げにぎゅきゅう、と不思議な声
で鳴いた。そして松寿丸はその大きく開かれた口の中に並ぶ鋭い歯を見て、そこで彼は気が付いた。この魚が鯱と呼ば
れるものだと。目の前に整然と並んだ歯は、どう見ても捕食者のそれだ。
慌ててを引きずるように鯱から離せば、鯱は大きな巨体をくねらせて器用に水の中へと戻っていった。そして松寿
丸は自分が波打ち際付近まで近づいていることに気が付いた。



このあと、そもそも声を聞いたはずの漁師が誰一人いないということは、それはつまり鳴き声が鯱のものであることが
わかったいたからだということに気が付き、本日二度目になる戦慄をすることになる。














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鯨殺し=鯱(シャチ)、鱶(ふか)=鮫(サメ)。
基本的にシャチはどの海にも棲み(冷たい海が好み)、昔は瀬戸海かはわかりませんが日本でも見られ、「鯨殺し」「鯨落とし」
と呼ばれ恐れられていたそうです。しかしサメよりも人間を襲った例は少なく、襲ったという事例も仲間の敵討ちという記録が残っているのみです。

にしてもファーストキスがディープ(?)てどうなの。



※この人口呼吸法を実践しないでください。大変危険です!