08







「あねうえぇ……ほんとうにするのですか……」

「こうでもしないと。わたし、まだしにたくはないもの」


ざあざあと波の音がすぐ近くで聞こえる。今立っている屋敷のすぐ近くの切り立った崖から、視線をやればすぐ
下に瀬戸海が見える。とてもではないが、この高さから落ちれば到底助かるとは思えない。

……人間だったならば。おそらく自分であれば、大怪我を負うことは避けられないだろうが死ぬことはないだろ
うとはあたりをつける。随分と危険な賭けである。死にはせずとも、そのまま意識を失った場合最悪、溺死
するなり無防備になっているところを今度こそとどめを刺されてしまうことになるのだから。
だからと言ってこのまま何も手を打たずにいるわけにもいかない。いくら人と違うといっても首を切られてしま
えば流石に死んでしまう気がする。……切られたことがないのでなんとも言えないが。


「だって、あねうえ、そんなほうほうじゃあ……よるのうちににげてほしかったのに」

「それだとくりまる、あなたのみがあぶなくなるのよ」

「うっ……でも、そんなのどうだって、」

「よくない」

「でもあねうえのきけんにくらべたら、」

「よくない」

「ううう……!」


自分が落ちるわけでもないだろうに、栗丸はぼろぼろと涙を流していた。
赤く染まった目元を優しく撫ぜて涙を払うと、は再度栗丸に念を押す。


「くりまる、ここからはどれだけだませるか、よ。わたしはおちてしまえばおわるけど、あなたはこれからもず
っとちちうえにもははうえにもぜんいんをだましとおさなくちゃならない。がんばるのよ」

「そ、そのくらいなんだってないです! でも、でも、あねうえを、みすてることもしたくないです……」

「みすててない。わたしはたすけられているよ。もしこのいえにあなたがいなかったら、わたしはきょう、くび
をきられてかくじつにしんでた」

「ひっく、うっ、でも、」

「だいじょうぶ。わたしはひとじゃないから。くりまるだってしってるでしょ、このめ」


そう言って少し微笑んで自分の瞳を指さす。長らくの空腹で既に赤目を抑える力もない。
早朝の朝日を受けて爛々と、しかし異様に輝いているはずの瞳を見ても、栗丸は気持ち悪がるそぶりも見せずし
っかりとの目を見て言った。


「ひとでなかったとしても、ぼくのあねうえです! ……うわああんっ」

「ほら、なかない」


こんな自分でも姉と認めてくれる栗丸に心が温まるのを感じながら、未だに泣きじゃくる栗丸を抱きしめる。ま
だの方が身長が高い。

ぽんぽんと背中をあやすように叩きながら、少しずつ起きていく人々の活動と、それに伴って弟との別れを感じ
ていた。もうそろそろ気付いた人がここを見つける頃合いだ。


「ねえ、くりまる。いつか、わたしがもっとつよくなったら、たすけにくるから」

「しなないで! あえなくってもいいよ、いきてて! いきてて……!」

「やくそくね」


顔を上げれば、既にこちらに向かってくる影。兵が数人気付いて慌ててやってきたようだった。
栗丸から腕を離し、距離をとる。


「くりまる、てはずどおりに」

「…………っ、はい!」


兵が私たちのやり取りを十分によく見える位置まで来たとき、栗丸は私を崖下に突き落とした。


「だいすきだよ」


栗丸の小さな手が強く肩に当たった時、口の動きのみで言葉を伝え、私の体はいとも簡単に宙へ放り出された。
松寿丸のところからそのまま着てきた上等な着物が空気の抵抗に従ってばたばたとうるさくはためく。髪をまと
めていた紐がするりと滑って飛んでいくのが見えた瞬間、肺が潰れるかのような衝撃とともに体が水面に叩き付
けられ、強打した頭はまずいまずいとは思っていても、意志とは反対にぼやけていった。





−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





「城を出ましょう、松寿丸様」

「おおかたさま、なにゆえしろを?」

「……出ましょう」


今朝方、松寿丸様の膳の毒見を担当していた忍が倒れたという情報が入った。つまり、松寿丸様の膳に毒が混入
されていた、と。
正直思ってしまった。ついに来たか、と。つい先日父君が倒れもう既に意識はないと伝えられ、塞ぎ込んでいら
っしゃる所にこれだ。想像するに、もはや回復の見込めない父よりも今毛利家で実権を握っている幸千代丸様、
ひいてはその後見であり父君である兄の興元様についた方がよいと考えた家臣が勝手に毒を盛ったのではないだ
ろうか。松寿丸様にその気はなくとも、幸千代丸様の地位を危うくするだけの才と智が彼にはあるのだ。

それにしたって、何と強い毒を盛ったものだ。普段から毒などに耐性を持つ忍が倒れて動けなくなるほどの毒を
用いるなんて。それほどまでに松寿丸様が危険視されているということなのだろうか。
つらつらとそんなことを考えていると、松寿丸様が静かに言った。


「われのみがあぶないのか」

「……松寿丸様?」


正直ひやっとした。聡明な方だ、聡い方だと思ってはいたが、こうも正確に正解に近く人を察するなどやっと十
になるくらいの子供にやれと言ってできるものか。
考えて冴えていく思考を持て余していると、松寿丸様はやはり静かに言った。


「おおかたさま、われのみがあやういのであればおおかたさまにもきけんがちかいはず。なにかあるまえにおに
げください。われは、しょうじゅは、おおかたさまにはいきていてほしいのです」


冴えた思考が今度は急激に冷え、そのあとすぐに怒りを伴って熱くなる。
このような思考をする子供がいるだろうか、否いまい。ならばなぜ松寿丸様がこのような考えを持つのか。それ
は周りの大人たちがそういう環境を作ったからだ。
杉大方はふつふつと煮え立つ怒りを堪えて拳を握る。ふうと息をついて力を軽くすると、後ろまで腕を引いて目
の前にいる松寿丸のふっくらとした頬をはたくようにして叩いた。
パンッと乾いた音とともに叩かれたそこを抑えて目を丸くする松寿丸に、やっと子供らしい顔を見せてくれた、
と思いながらひらひら手を振った。手が痛むほどには思いっきり叩いた。


「何を言っておいでです、松寿丸様。ともに城を出て逃げるのです」

「……」

「先ほどのご無礼、お許しください」


未だ呆然としている松寿丸様に頭を下げると、はっと我に返ったように「いや、よい」とお許しの声が聞こえた。
そのあとに小さく礼を言う声も聞こえた。














それから一刻後、まともな食事をとることもなく最低限の身支度を整えてお付の者などない中、杉大方と松寿丸
の二人はこっそりと城を後にした。
















‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
この二人どっちも朝餉を食べてない。