07







「おおかたさま、はまだねているのですか」


並べられた朝餉を見るだけで食べようとしない松寿丸に、痺れを切らした杉大方がお食べにならないのですか、
と聞くとこう返ってきた。

きっと、いつも朝餉を共に食べていたが今日に限って一向に来る気配を見せない上、彼女の朝餉の膳だけが
用意されてもいないので訝しんだのだろう。
それでも静かに何も言わず半刻も待っていたのだ。膳はとっくに冷えてしまっている。いつもであっても毒味や
ら何やらで膳は冷えているが、それ以上に冷めきっている。


「……。……様は今日は、来られません」


答えに詰まり、苦い気持ちのまま何とか声を絞り出して答えた。松寿丸様が気を落とされないようにと遠回しな
言葉に変えたというのに、これでは聡い彼のことだ。勘付かれてしまうかもしれない。
内心ひやひやしながら松寿丸様の返答を待っていたが、帰って来たのはごく簡単に「……そうか」の一言だけで
あった。普通の幼子なら、気落ちしたとか落胆したんだろうなあと思うだけだっただろうが、彼は松寿丸様だ。
聡く賢い彼は、幼いなりに何かに感づいてしまったのだろう、短い返答の中に滲ませた感情は幼子のそれにして
は深く重いものだった。

その後、松寿丸様は膳の半分も口を付けずに残し、そのまま自室へと帰ってしまった。
それに少しばかり遅れて食事を終え、松寿丸様の部屋へと向かいながら本当のことを話すべきかどうかを考えあ
ぐねた。知ってしまえば必ず気を落とすこととわかっていて、どうして話せるだろうか。

話さないことに決めてそっと部屋の前に立つ。私は表情に出やすい訳ではないはずだが、細かな変化でも何かを
悟られてしまいそうなので気を引き締める。
いざ、戦地へ赴くような気持ちで足を踏み出そうとした。


「おおかたさま、どうしたのですか」


踏み出そうとした足を立った半歩でぴしりと固めた。障子に影ができていたわけでもないだろうに、存在を気付
かれている。武士の子として将来有望ではあるのだろうが、今の杉大方に取っては何ともやりづらいものだった。

部屋に入ると真ん中に正座してこちらを見つめる松寿丸様と、まるでここに座れと言っているかのように彼の正
面に置かれた座布団が目に入った。見つめてくる彼の目は年齢にそぐわぬ真剣なものだ。

そこで杉大方は悟った。ああ、松寿丸様はきっと真実の近くまで辿り着いている。誤魔化すことなどできはしな
いと。そう思わせるほどに彼の目には聡明な光が宿っていた。


「おおかたさま」

「……お話いたします」


松寿丸様に促され話し始めるも、その言葉の拙さが逆に不自然に思えた。


「様は恐らくもうこの城にはおりません」

「な! ん、どうして……」

「今頃はきっと家に向けて帰還中にございましょう」


様のあの奇異な目が開かれた日から三日、やはりあの女中ら二人はどこかに話を漏らしていたらしく、噂は
瞬く間に城中を駆け巡っていた。当然それは城主の耳にも入り、その重臣のうちの一人が心当たりがあると言っ
たらしい。元々毛利家の中でも家の問題が持ち上がっていたのでそこの情報は山のように集められていた。
その中でという直系長姫がいると言う情報もあった。そして、その子が異形の子であるというような噂も。
家は公にはしていないが、その城下や下仕えの者たち間では大層有名なのだという。

その噂を元に確認をしに来た重臣らに、様を隠し通すこともできず連れて行かれてしまった。
それからすぐに彼女を帰還させるため、今朝方早くに数人を伴って城を出たことがわかったのだ。


「なにゆえ、かえすのです! のからだにあったきずあとも、あのいえでつけられたものであろう!」

「それは私も訴えたのです。しかし取り次いでもらうことさえできず、そのまま。きっとこれを機に家に貸
しを作る気なのでしょう。そうすれば問題になっていた家も毛利に従わざるを得なくなるでしょうから」

「そのような……! ち、ちちうえは! ちちうえはこのようなことをゆるすはずないであろう!?」

「…………隆元様は、病に伏せっておられます」


言葉を失って呆然とする松寿丸様に、もはやなんと言って声をかけたらいいのかわからなかった。

隆元様は、正妻を亡くされてからというもの、酒に溺れるようになりその酒量は回数を重ねるごとに増えていた。
それが祟ったのか、松寿丸様が八つになる頃には既に幾度も体を壊していた。そして今、今までよりも酷く体調を
崩された。薬師によればもう意識も混濁してきているという。私も夫の傍についていたいが、ずっとついているわ
けにもいかない。

そんな中、今この毛利家で実権を握っているのは松寿丸様の兄であり、幸千代丸様の父親である興元様になる。
教養もあり思慮深く、文化人であり何より聡明なお方だ。松寿丸様のことも血を分けた弟としていつも可愛がって
いる姿を見かけた。しかし体があまり丈夫でなく、若くして家督を幸千代丸様に譲り、今は隆元様ほどではないに
しろ何度も床に伏せっていると言う。さらに、数少ない松寿丸様の見方をして下さる方であるというのに、今は遠
い城にいらっしゃるのだ。


「ちち、うえ、が」


ぺたりと床に座り込んだままそう呟き、似つかわしくないぼうっとした瞳で庭を見つめて動かなくなった。
私は何かものを言うこともできず、ただただその小さな背中を守るように後ろについてやることしかできなかった。





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「……ただいまもどりました」


父、まだ幼い弟の一人を含め多くの家臣が勢揃いした間に通され、一番に発した言葉はそれであった。
本当に不本意ながらも自分の城に帰ってきたのだ、何らおかしくはない。
……が、私は故意に捨てられた身。


「ちっ。帰って来おったか」


この身の帰還を望まれているかいないかなど、考えるまでもなかった。

その中で、同じ年齢ながら既に後継の立場にある弟は、を見て心配そうに目を流していた。
会ったのは今が初めてだが、顔の造形がどことなく似通っているので自分の弟だとわかる。乳母からは心優しい弟だ
と聞いていたが、実際そうなのだろう。

もうよい下がれ、と言われて素直に下がる前、弟をもう一度見やると弟はまだ心配そうな顔で手を上げかけ、静かに
降ろし、顔を俯けた。


「馬鹿め。誰だ、あれを生かしておいたのは! 腹を裂いて捨てておけと言っただろうが!」

「ひいっ! も、申し訳ありません、確かに腹を切り裂いたと……」

「ち、ちちうえ……っ」

「ええいお前は黙っておけ!」


襖を閉めた途端に聞こえ始めた怒声に辟易とする。別に帰ってきたくて来たわけじゃない。
溜め息をつくも、今に始まったことではないのでもう気にはしていない。さらに言えば、人間などとは比べのものに
ならないほどの回復力を持つ私は、腹を裂いたくらいでは死ねなかった。相応の痛みはあれど時間さえ過ぎてしまえ
ば傷跡は癒えるのだから。
松寿丸に出会う前に傷が塞がってしまっていて良かったと改めて胸をなでおろした。

しかし弟のことが気になる。あの子には私のような異形の血は流れていないだろうが、それでもこの家であの子の優
しい性格では生きづらいはず。

先程の、栗丸の声のあとに響いたドタンという音はもしかすると、父に殴られた栗丸が倒れた音かもしれない。

辛い思いをしていなければいい、と希望にも似たことを思いながら、恐らくそれは今の時点でももうすでに叶ってい
ないのだろうな、と現実的にも直感的にも悟っていた。





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「あ、あ……あねうえっ」


その日の夜、なんともなしに部屋の障子をかたりと開く。
既に血を求めて赤く染まった目は異様にらんらんと輝いていたが、今となってはもう異形の目を見られようと、どう
でも良くなっていた。

そんな心持ちで気楽に縁側で月を眺めていた所を弟に呼びかけられた。
呼びなれていないのだろうか、放つまでにわずかに時間がかかった言葉はどこかたどたどしい。


「なに、くりまる?」

「あ、ねうえぇ! にげてくださいっ、ここから、はやくっ」

「おちついてくりまる」


振り向けばそこには、半泣きで鼻水を垂らしながら何かを訴えている弟がいた。
正直びびった。振り向くとぐしゃぐしゃになった顔で後ろに立っている人間がいたのだから。
その頬は冷やした跡こそあるものの赤く腫れていた。


「ちちうえにやられたのね」

「……! え、あの」


口籠るも、すぐに否定できない素直さこそが何よりの証明だ。
赤い瞳をもろに見ても、栗丸は少しばかり驚いたのみで何も言わない。きっと私が捨てられる前から何かしらを聞
いていたのだろう。
自分は怪我を直すことをしてやれないので、やさしくそこをさすってやっていると、その手を両手で強くつかみ返
された。


「あねうえ、このしろからでてください。このままではあねうえがあぶないのです」

「それはいままでとおなじだよ」

「ちがうのです! あすのよる……あねうえを、うみにながす、と」

「……だいじょうぶ。それじゃあわたしはしなない」


そこまで言うと栗丸はさらに顔から血の気を引かせて言い募る。


「くびを! あねうえのく、くびをおとしてからながすと! だからあねうえ! にげてくださいぃっ」

「……」


そうまでして私と言う存在を消したいのか。殺されるのは御免こうむりたい、が。今ここで私が逃げれば、十中八
九栗丸が疑われてしまう。それだけは避けたい。


「そうだ、いいことをおもいついた。くりまる、わたしのいうことをよくきいてね……」



耳に口を寄せ、さも名案だと言うようにその案を告げ、栗丸の悲鳴を聞くことになるのはもう少しあとの話。













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私が今食べたい物の名前をつけました。栗丸ってなんか美味しそうな名前じゃないですか?←