02






帰りついたのは夕刻を少しばかり過ぎてからだった。先ほど廊下を女中たちが忙しなく行きかって
いるのを尻目に静かに通り過ぎたところだった。
自分の住んでいた城とはいえ、吉田郡山城は広大だ。もう十を数える年になるが、それでも初めて
外から入る今、半分は迷っている状態だ。それでもなんとか庭に身を潜めつつ、垣間見える部屋の
特徴を見ながら少しずつ自分の部屋へと向かっていた。


「何者です!」

「!」


ちょうどあと少しで自分の部屋へと着く、と考えて植込みの間を進もうとしていた時だった。
鋭く飛んできた言葉にどきりとする。着ていた袖の広い着物が仇となったのか、植え込みに引っか
けてがさりと大きな音をたてた。あと少しだと思って気が緩んでいたのかもしれない。
一気に戻ってきた緊張に、冷や汗が頬を伝う。


「誰か! ここに何かが!」

「……! まってください、しょうじゅです!」


警戒で気を張り詰め過ぎて気が付けなかったが、よくよく聞いてみるとその声は慣れ親しんだ養母
の杉大方のものだった。
少女を背負ったまま急いで顔を出す。が、今度は少女の着ていた長い裾に足を取られて転んでしま
う。なんとか気を失っている少女が地面にぶつかってしまうのは避けられたが、そのかわりに松寿
丸が地面ともろにぶつかってしまった。少女を支えるために手が塞がり、手酷くぶつけた顎がひり
ひりと痛んだ。


「まあ、松寿丸様! ご無事ですか? あら、このおなごは……いえ、今はとりあえず中へ」


そう言うと杉大方は松寿丸の上から少女を抱き上げ、松寿丸を立たせてくれた。砂埃を払いながら、
ここに敷き詰められているのが砂利ではなくて本当に良かった、と思っていた。







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「では、森で拾った、と」

「はい」

「社の奥の森にまで入ったということですね?」

「……はい」


あのあとまず杉大方の上げた声でやってきた城の者に、庭にいた猫に過敏に反応してしまったのだと
伝えた(随分と訝しがられたが)。そうして一段落ついてから今までの経緯を詳しく聞かれ、相応に
叱られた。

その後からが大変だった。松寿丸自身は長い道のりの間に負った軽い擦り傷や打撲だけだったので、
治療も軽いもので済んだが、彼が抱えてやって来た少女、はそうはいかなかった。見ただけでは
特に外傷のようなものは見とめられなかったが(松寿丸が少女の足を引きずって連れて来た時の擦り
傷以外)、杉大方が念のためにと脱がせた着物の中が酷かった。
青痣になるような打撲痕、無数の切り傷、裂傷。少ないものの火傷の跡まであった。打撲痕は偶然で
きるような大きさのものではなく、傷つけようという明らかな意図の見えるものだった。切り傷は打
撲の数をゆうに超え、細かなものからつけられてから大分経つだろうに未だ消えないものまで様々だ
った。中には鞭の痕であろう裂傷も見られた。火傷の痕などは、真新しいもので蝋燭火によるものが
多かったが、その中でも胸の中心、鎖骨の真下にあるものは何かを象っているのか、未だに消えずに
烙印のように痛々しく少女の胸に焼き付いている。

松寿丸はおなごの肌を見るのはいかがなものか、と手当などは杉大方に任せて自室で休んでいたのだ
が、杉大方に呼ばれて少女の体を見たときには流石に血の気が引いた。
杉大方は一応確認のためにと彼を呼んだらしいが、少女の傷跡を見て蒼白になり駆け寄る彼の姿を見
て、少々哀れに思えたのか「松寿丸様のせいでついた傷ではありませんよ」とつい声をかけてしまった。


「だ、だいじょうぶなのか? しには、しないのだろう……!?」

「大丈夫です、松寿丸様。この傷は昨日今日につけられたものではございませんから。今彼女は眠っ
ているだけです」

「そうか……」


彼女の傍に座りこんで手を握る松寿丸は、いつもと違っているように見えた。
いつも、家の者に疎まれていることに敏感に感づいて表に出さずとも内心で傷ついてきたせいか、ど
うも自分を不要な存在だと考えている節が多々あった松寿丸。今日、普段から迷うと危険だからと言
って近付かないように言いつけてあった社の奥の森に行っていたのも、年に似合わず賢い彼のある種の
選択だったように思えていたのだ。例えば、自分の生を賭けた何かの。
決して褒められた行動ではないが、近くで彼を見てきた杉大方にはそうしたくなる気持ちが痛いほどよ
く分かった。
だからこそ、今こうして少女を通して命に対する見方が変わっているのは良いことだと思う。それが
他人のものであろうと、命を大切にすること、誰かを慈しむこと、慈しんでくれる人がいること。そ
れらに気付くのに恐らくは繋がってくれるのだろうから。

……とは思ってみるものの。このままにしておくのは少々いただけなかった。


「……松寿丸様。心配になるのもわかりますが、おなごの素肌をまじまじと見つめるものではござい
ません」

「……はっ! す、すまぬ!」


バッと大慌てで手を離し、耳まで赤く染めながら素早く少女に背を向ける松寿丸は、何やら小さい声で
呟いているらしかった。


「……い、いまのはしんぱいをしていただけで……いや、みてしまったものは。せきにんをとるにもまだ
……しかし、みて、しまったのだから……」


内容を一部聞いてしまった杉大方は正直、声を出して笑ってしまいたかった。しかし真面目に、深刻そう
に考えている彼の手前、微笑みをこぼすに留めてもうしばらくの間悶々と悩む彼の姿を眺めていた。









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元就が松寿丸の時(城を追い出される前)に住んでいたお城は多治比猿掛城(……だったっけ?)
らしいんですが、変換も難しいしこのお話自体史実通りのようでいて大体無視してるからまあ良いか!←
と思ってあえて吉田郡山城にしています。