02







「いてててて……お、思いっきり切り裂かれたよ」


昨日、ふわふわした白銀の髪の男(…?)に裂かれた腹をさする。もういっそ惚れ惚れするくらい綺麗に
一文字に斬られている。何の迷いもなかったのだろう、切り口には歪みさえない。


「私が人だったらこれ、死んでたって……」


内臓までもすぱっと斬られているのだ。未だに逆流してきた腹からの血の味が残っている気がする。

朝になる前に目が覚めて良かった。人に見つかる前に何とか近くの木に這い登ったが、見つかっていた
らと思うとひやひやする。
あの状態で見つかったとして、不審者とみなされるだろうが、まず間違いなく悲鳴を上げられてしまう。
斬られた腹からは腹圧がなくなったせいで腸やら何やらが飛び出ていたのだ。もう不審者どころではない。

やっと傷があらかた塞がり、血も止まって来ているが人間だったのであれば確実に天に召されている。


「治りが早い性質で良かったよ……いてて」


木の上に登ったことで安心しきっているだが、その下は腹を斬られた場所から大量の血痕が続いてい
るので、誰かが通りかかれば間違いなく見つかってしまう。そんな位置にいた。

相当量血液を失っているようで、意識が朦朧として頭がふらつく。木の上にいながらにして、は不覚
にも気を失った。





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「さて、政務も一段落ついた……」


これからの策は十分に用意してある。……それだけで満足できるわけではないけれど。
秀吉は長い戦から帰って来て久しぶりの休息を取っている。この間にも自分のやれることをもっとやって
おきたかったが、もう三日とまともに寝ていない。食事は取っているが、睡眠を取らなければだんだんと
頭も働かなくなっていく。単純に、体は休養を欲していた。

そろそろ休もうか。そう思って一息つこうとしていると、何だか庭のあたりが騒がしい。休みたいが、こ
の騒ぎの中ではおちおち寝てもいられない。
睡眠不足と疲労でイライラした心を抑え、半兵衛は騒ぎの元へと向かった。











「何事だい、これは」

「はっ、竹中様!」


話しかけた女中が驚きで目を丸くする。その後すぐに畏まって事情を話し始める。
この城は秀吉のものだが、その中で軍師の立場にある半兵衛にももちろんのこと城の者たちは畏まる。

話を聞いているうちに徐々に人が集まり、その彼女らの話を聞くに、朝ごみ出しをしていた女中が壊れて
いたはずの焼却炉が直っていることに気付き、それを知らせようと後ろを振り返るとそこは世にもおぞま
しい血の海だったとか。
まあ、大体の光景は察する。腹を裂いて大量出血した女を放置した犯人は自分であるのだから。
しかし、女中が言うにはそんな所に死体はなかったという。誰かが既に別の場所に移動させたのか、もし
くは自らあの場所を移動したのか。あの傷で動けたのならそれは驚くべきことだが、あの傷だ。確実に腹
を中まで斬った感触があった。まず生きてはいまい。
そう思っていたのに、女中が指差した先にある大きな木の上。そこに昨日斬ったはずの女の姿があった。
まるで木に登って眠っている猫のように、だらりと長い髪を垂れさせながら太い枝の上で丸まっている。
その顔は遠目で見てもはっきりとわかるくらいには顔色が悪い。
死ぬにしたって、あんなところで。城から出て行ってくれれば、こんな騒ぎにはならなかっただろうに。


「どうして誰もあの死体を降ろさないんだい」


溜め息と共に言えば、集まっていた大体の人間が半兵衛に気付き、慌てたように持ち場につきに行く者や、
その場を退いて路を空ける者がいる。その中で事情を知っていた者が言うには、あの木は猿滑りの木で登
ろうにも梯子を掛けようにも滑って掛けられないという。

はけていく人ごみを通って木の下まで行けば、女は相当高い位置にいることが分かった。なんて迷惑な。
何か棒でつついて落そうにも高すぎて棒が届かない。登ろうにも木が滑って登れない。果ては木をゆすっ
て落とすかと考え始めたとき、上で身じろぐ声が聞こえた。そんな、まさか。


「んん、うっ。いてて」

「……そこの木の上の君、まさか生きているのかい」

「ええ? あっ、昨日の! 危ない人!」

「それは君が言えたことかい……」


心中では恐る恐る、声音は至って普段通りに声をかけると、意識を取り戻したらしい女が木の上からこち
らを見下ろしていた。
……もしかして昨日の女とは別人だろうか。僕は確かに腹を中ほどまで切り裂いたはずなのだけど、どう
してああも元気なのだろうか。
しかし良く見ずとも、彼女の着るみすぼらしいような、そうでないような着物の腹の部分はおびただしい
量の血に染まって一文字に裂け、口元の血も乾いて黒くこびりついている。
にもかかわらずなぜそこまで元気なのか。言葉と一緒にビシッと人差指でこちらを差し、声の張りも通常
のそれと同じかそれ以上ある。化け物か。

ふと考えた言葉がぴたりと当てはまった気がした。ああ、そうだ。そういえば彼女の犬歯を見て僕は剣を
取ったんだったか。

ちらりと考えがよぎったのはごくわずかな間だったはずだが、元気と思われた彼女はどうやらそうではな
かったらしく、指差した手を降ろしたと思えばそれはただまた気を失っただけであったようで、ふらりと
上体が揺らぎ次の瞬間には僕の上に落下してきた。僕の、上に。


「うわーっ、落ちてきたぞ!」

「竹中様!」

「皆逃げろっ」


……いや、なぜ逃げる、別に逃げなくていい。
僕は僕で落ちてきたものだからとっさに受け止めてしまった。衝撃こそあったが、予想よりも軽い体に少
し驚いた。まあ、予想と同じかそれ以上に重さがあればそのまま手を離して落としている所だったのだけ
ど、寝不足で体力の落ちている今の僕でさえふらつきもせずに受け止められるほどなのだから、相当なの
だろう。
良く見れば、着ているものがあべこべだ。着物自体はかなりみすぼらしい安物で、帯はそれより少しばか
り良いものだ。履物もそこまで良いものではない。ただ、帯止めだけはとても高価なもので、値が張るど
ころのものではない。小さい城ならこの帯止め一つでお釣りがくるようなものだ。
一貫して言えるのはそれらがどれもぼろぼろに使い込まれていることくらいだ。一体彼女は何者なのか。
改めて彼女に対する疑問が深まった。

女を抱いたままじっと観察していたせいで降ろす機会を失い、仕方なく薬師の所まで運ぶことにした。
受け止めてしまった手前というのもあるが、まず昨日のあのどうしようもない危機感がなかったことが一
番の理由かもしれない。





「さあ休憩時間はもういいだろう。皆、各自持ち場につきたまえ」









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実際、猿滑りの木がそこまで滑るのかわかりません。
見たことがあるものも自分の身長程度のものでしたので←