黒を纏うひと





「やあ、奇遇だね。また会うなんて」


私の目の前に立つ男は、にこり、と人好きのする笑みを浮かべた。


「本当ですね。私はここに修業しに来たんです。あなたはまさか、この間ここで会ったときから
ここにいた……なんてことはありませんよね、流石に?」

「やだなあ、ちゃん」


これまたにっこりと笑うと、彼はそのまま笑顔を貼り付けた顔で答えた。


「もちろんその通りだよ」

「そのまま動かず私に近づかないでください」


私がその答えを聞くやいなや、ドン引いた顔で少し後ずさろうとも、彼は変わらぬ笑顔のままだ。


「あれ、どうして離れていくんだい? またこうやって再会できたんだ、バトルでもしようよ」

「あああ、寄るな、触るな、近寄るな! 不衛生なんですよゲンさん!」


目の前の男は、ゲンさん。
どうしてだか昼も夜もこうてつじまに籠りきりの人だ。


「もう、お風呂に入ってないんでしょう!? そんな状態でよく平気ですね! 仕事は一体どうしたんですか!」

「お風呂、入っているよ? ここは鉱山だけあって火山でね。少し山の外に出れば温泉が湧いているところがあるんだ」

「へえ、そうだったんですか。知らなかった。で、仕事はどうしたんですかってば」

「……仕事かい? 今はね、お休みをもらっているんだ」


そこでふっ、と彼の纏う空気が変わった。
特に外側の何かが変化したわけではない。現に、彼の笑顔は顔に張り付いたままだ。


「え、と。ゲンさん」

「ん。なんだい?」


一体何に気圧されたのか、私はまごついてまともに話しかけることすらできなかったが、ゲンさんはそれでも返事をくれた。
それなら、何か気になっていることを聞いてもいいはずだ。
彼は入り込むことを許可して、私に返事をしてくれた、はずだ。
それなら、何も怖いことなんてあるはずがない。なのに。


「あの、ゲンさん。ゲンさんは、その、どうして、」

「本当に聞きたいの?」


どうにかこうにか私が一生懸命に選びながら言葉を紡いでいると、
疑問が核心を突く前にゲンさんが遮ってしまった。


「え?」

「君は、本当に、僕の事を知りたいの?」


何言ってんです、知りたいから聞いてんです。


そう言えばいいのに、私の口は震えるだけで何も言ってはくれない。


「なんで、それ、どういう、」

「いいんだよ、無理をしなくても」


もうすでに私の口はスムーズに言葉を作りだす機能を失ってしまったようで、途切れ途切れにしか声を形にできなかった。


「良くなんかないですっ、何もいいことなんてない!」

「何がよくないの? 大丈夫、落ち着いて。どうしたの、そんなに取り乱しちゃって……」

「ゲンさんが! ゲンさんが違うから! いつものゲンさんじゃないからっ、私っ」


感情のままに髪を振り乱しながら必死に訴える。
ついに頭までおかしくなってしまったのだろうか。
だとしたらそれもゲンさんのせいだ。彼が纏ういつもと違う異様な空気にあてられたせいだ。
いつの間にか涙声になっているし、頭の中はもう整理のつけようがない状態だ。
あれ、どうして私が泣かなくちゃならないんだ。
本当に悲しくて、苦しそうなのは、ゲンさんの方だ。


「もう、わたし、どうしたらいいのっ。どうしたら、ゲンさんは元に戻ってくれるの!」

「ほら、大丈夫かい……ごめんね、怖がらせるつもりじゃなかったんだけど」


本格的に泣き始めた私を見て、声音を軟化させたゲンさんは、苦笑して私の背中をさすってくれた。


「いいんだ、君は悪くないんだよ。ただちょっと、色々あってね」


君に当たってしまったね。


そう言ってさすってくれる手はいつものように紳士的でとても優しいものだったけれど。
彼の纏う空気だけは、依然として変わりがなかった。
けれど、その空気に触れることで分かったこともあった。


「ゲンさん」

「……なんだい?」


先ほどのようなやり取りを繰り返す。
さっきと違うのは、私の唇が震えていないことだ。


「ゲンさんは、何を悼んでいるんですか」

「……」

「それはひとりで抱えなければならないものですか」

「…………そう、だね」

「それは今の私にはわからないものですか」

「わかる、かな。いや……わかるさ」

「なら、いいんです。それなら大丈夫」


私も、ゲンさんも。

やはり、何を言っても彼の空気だけは変わらなかったが、私がわかるものならそれでいい。
その正体がわかったなら、もうそれで。